小さいころの、話だ。


『まさひこ!ねぇ、なんでお父様はああがんこなの!?』
『落ち着いてください千鳥様、当主様はお嬢様が可愛くて仕方ないのですよ』
『うそよ!じゃなきゃこんな酷い修行、させるわけないもの!』


 いつもいつも文句を言いながら、それでも素晴らしい才能に恵まれたあの子は父親と衝突しながらもすくすくと育っていった。それこそ生まれる前から、奥様に「この子をよろしくね」と言われていた私にとって、仕える相手とはいえまるで娘の様な存在だった。




 84.





『ねぇ柾彦、私、結婚するわ』


 イギリスから帰ってきたと思えば、そんなことを言いだした千鳥様はそのまま異国の男と連れ立って実家を去った。完全に勘当かと思いきや、後継ぎのいない夕蒔家は必死で行方をくらませた千鳥様を追うことになった。何年振りかで会ったあの子は、本当に、とても綺麗になっていた。


『ごめんなさい、柾彦。帰る気はないわ』


 黒髪の、千鳥にそっくりの子供を抱えた千鳥は幸せそうに目を細める。


『あのひとの傍で生きようと決意したの。他の、何を捨てても』


 生まれ育った家を捨てても、それでも。 


 そう言って、美しく育った千鳥様だったから。私は夕蒔家に戻っても何も言わなかったのだった。私の仕えているのは確かにこの家だったけれども、夕蒔千鳥という一人の人間に仕えていることが事実だったのだから。


 そんな昔の夢を、仕事の合間にうたたねで見て。私はいけない、と首を振った。うたたねなどしたことがなかったのに。疲れているのだろうか、と考えてからふと、脳裏に手を振る幼いころの少女の姿が浮かぶ。




 幸せそうに、そっと。何度も何度も手を振るあの子の姿が、どんどん遠くなっていく。




「・・・・・・・・・千鳥様・・・・・・・?」






*





「いたっ・・・」


 鋭い痛みが指に走る。ぽたぽた、と点々と落ちる血に眉を寄せた。しまったな、こんなことをしていたらアオトに笑われてしまう。


「・・・ん?」


 何故いきなりアオトが出てきたのだろう。「ちょっとクライス、なにしてるのよ!大丈夫?」と同僚が声をかけてきたことにも気付かないまま、僕は呆然と落としたマグを拾おうとしたままの体勢で固まった。

 確かに、マグをおっことしたり転んだり、騒がしかったのはアリアだ。3つも上の先輩なのにいつもどこか危なっかしくて、だけどいつでもニコニコしていて。笑顔の可愛いアリアを、いつでもアオトが一緒にいたような、そんなイメージがあった。

 だけど、もうホグワーツは卒業したのに。あの2人にもここしばらく会っていない。なのに何故。


「・・・そういえば、もうすぐ子供が生まれるって言ってたな」


 だからか。それでも拭えない嫌なざらりとした不安に、僕はしばらく流れる自分の指の血を見つめていた。





















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120218