ウォルスの背中で泣いた日、千鳥はそのまま保健室に行った。真っ赤な目のまま寮に戻るわけにはいかなかったからだ。付き添ってくれたウォルスは校医のマダムに怒られてしまったけれど、どこかほっとしたような表情をしていたのは気のせいだったのだろうか。


「・・・・・・ありがとう」


 そっと一人になってから、そう呟いた。




 54.




 OWL試験が終了し、千鳥は着々と帰国する準備を始めていた。試験の手ごたえは思っていたよりもはるかによく(リドルに比べれば大したことはないけれども)帰国してからの日本での学校の評価にも充分に生かせるだろう。それが後に、ホグワーツに伝説となって残るほどの成績だとはこのとき彼女は知る由もなかったのだが。


「帰国はいつだったっけ、千鳥」
「明日よ」
「残念だな、君がここからいなくなってしまうなんて」
「残念なのは私じゃなくて、私の持つ秘術を知ることができなかったこと、でしょう?」
「さあ、どうだろうね」


 飄々と言うリドルは相変わらずだ。だけどもこの生活ももう明日で終わるのだ。それは同時に、自分の政略結婚がそのまま通ってしまうだろうという意味だったけれど、もう覚悟はできていた。3年も我儘を通したのだ、これ以上はもうなにも望めなかった。


「だけどね千鳥、日本に帰るだけで僕から逃げられるなんて思わないほうがいいよ」
「っ、分かってるわよ」


 この希代の才能をもつ少年からそう簡単に逃げられないことくらい分かっている。だけど日本に帰ってしまえば、日本では相当の実力者である父がいるし、家族だって全員術者だ。自分だけでは心もとなくても、それを思えばなんてことはない、はずだ。


「・・・ふ、分かってるならいいけど」


 そっと耳元に口付けが落ちる。ぞくりと走る背中の震えを無視して、千鳥はぎゅっと唇を引き結んだ。その反応に満足したのかは定かではないけれども、そこでリドルはすくりと立ち上がると、千鳥のもとを離れた。そこでようやく千鳥は息をついた。




*




「千鳥様!」
「・・・柾彦?」
「お久しぶりです、随分ご成長なりましたね」
「やめて柾彦、夏には帰ってるじゃない」


 行きとは違って迎えの使いが日本から到着する。身長の高い優しげな男性の姿の柾彦を視界に捉えて、千鳥は駆けよる。笑う柾彦の姿になんとなく泣きそうなくらいに切なくなって、千鳥はここがホグワーツだということも忘れて柾彦にすがりついた。まるで幼子の反応に、しかし彼は優しく笑う。


「珍しいですね、千鳥様」
「放っといて」
「・・・ミス・夕蒔。準備はできているのですか」
「あ、ええ。そうだったわ、持ってきます」


 じっと見ていた教師の言葉に、はたと千鳥は気づいて柾彦から離れた。それから踵を返して寮へ戻る。その途中、だった。


「・・・千鳥」
「ウォルス・・・」
「帰るんだな」
「ええ」


 千鳥の前に現れたウォルスは、いつもの金髪をさらりと揺らして立っていた。何事かを告げられるのかを期待するように立ち止まるも、彼はただ言葉少なにそう言っただけで立ちつくす。それからゆっくりと笑った。


「よかったな。帰れて」
「・・・ええ」


 その横を、そっと千鳥は抜けた。一瞬だけ、引きとめられるのを期待した自分を嘲笑したい気分に駆られながら、千鳥はそれから寮に戻る道を駆けた。なにがあった?この3年間、辛いことだらけだったような気がしていた。自分から留学の道を選んだのに、自分からスリザリンに入る道を選んだのに、どうしてだろう、あんなに辛いと思っていたのに。


(・・・楽しかったのよ)


 スリザリンだなんてことを全く気にしないで友達になろうと言ってくれた子たち。うるさいだけじゃなく心配してくれる先生。留学生の噂を嬉々として話していた廊下の絵画たち、ゴースト。


(おかしいわね、最後になるとどうしても寂しくなるのかもしれない)


 そう、そして。




 ウォルスが、いたから。




(・・・ありがとう)


 何度目かの感謝の言葉を心のなかで呟いて、千鳥はそっと手を握り締めた。





*




「・・・帰ってきたのね」


 自分の部屋で、夏以来の畳に触れる。ベッドで寝るのが慣れてしまったから、しばらくは遠い天井にきっと違和感を覚えるのだろう。そんな風に思いながら、荷物を開いた。たくさんの教科書はきっともう使わないのだろう。


「千鳥様。入ります」
「どうぞ」


 柾彦の声にそう返すと、襖が開いた。その手に書類を持って、柾彦は部屋へと足を踏み入れた。荷物で未だ埋め尽くされた千鳥の部屋には座る場所など到底無く、仕方なく彼は端のほうをどかして、そこに正座した。


「お手伝い致しましょうか?」
「いいわ、一人でやるから。式もいらない」
「わかりました。―――では千鳥様、明日からこちらの学校へまた通うことになっております。準備をお願いします」
「・・・いいけど、私、こっちの学校の勉強してないのよ。年齢通りの学年に入っていいの?」
「はい。あちらでのOWL試験の結果が届きまして、その成績ですでに履修したとみなされたそうです」
「・・・そう」


 こちらがOWL試験の結果だそうです、特例として早く結果を出して下さったそうですよ、と言いながら手渡された用紙に並んだO・優、E・期待以上の文字に千鳥は目を剥いた。この試験の難関さも、評定の厳しさも話に聞いて知ってはいた、が。


(そりゃ試験の手ごたえはかなりよかった、けれど・・・!)


 ただの留学生で実質3年間しか魔法については勉強していない自分がとってよい成績なのだろうか。千鳥はひとり、その紙を握り締めて首を傾げた。

























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