もしも、君が隣にいたのなら。
 オレの決意を認めてくれただろうか。


 どっちにしても泣くんだろうなぁと泣き虫なあの子を思い浮かべた。




 118.




「えっと…こっち、か?」


 寄宿舎の部屋から抜け出して、オレは頭をかいた。闇祓いの寮の一部が開放され、オレとジェームズはその男子寮、シェスアは女子寮の部屋をあてがわれている。闇祓いでも泊まり掛けの仕事があるときしか使われない部屋もあるため、常にいくつか空きがあるのだそうだ。
 いつもなら夜中に目を覚ますことなどないのだが、寝る前にジェームズに飲まされた得体の知れない液体のおかげで腹がゴロゴロいいだして、仕方なくトイレに向かおうとベッドを抜けてきた。訓練に参加できなくなったら呪ってやる。


「ん?」


 廊下に並ぶ扉のひとつから、煌々と光が漏れていた。思わず歩み寄る。中からは、聞きなれた低い声が聞こえてくる。


「―――オレは、そんなつもりで言ったんじゃない」


 真剣な声音のアオトさん。どこか苛々としているようでどきりとした。アオトさんは、オレたちの前では決してみせないような表情で、声を荒げる。


「何度も言わせるな。闇祓いの人員が足りないのは事実なんだ。有望な学生達が卒業して訓練を受けるのを待っている余裕はない。そんなに言うのなら上が闇祓いを増員すればいいだろう」


 出来ないくせに、と吐き捨てるアオトさんを、老齢な声がたしなめる。


「そう言うな。いつの時代も、上は現場を知らぬ」
「こっちは人員がいくらあっても足りないくらいなんだ。―――オレだって」
「アオト…やはり、駄目なのか?」


 深いため息とともに、初老の男はアオトさんを見てそう呟く。だめ、ってなにがだめなんだろう。どこか深刻な響きをもつそれに、オレはそっと耳をそばだてた。


「オレには、もう余り時間がない…まともな状態で妹になにかを残せるのは、あと2,3年だろう…。あいつがホグワーツを卒業するまで、待っていられるかわからない」
「なんという…。数年の命というのは、本当だったのか」


 初老の男が嘆く声が耳に入ってくるのを意識しながら、オレは思わず口を抑えた。なんだと、いま、なにを。もしかしてオレはとんでもないことを聞いてしまったのではないか。動揺していたオレは、その瞬間に勢いよく目の前のドアが開いたことに反応出来なかった。


「…聞いてたのか。シリウス」


 ドアを開けオレを見たアオトさんはわずかに瞠目したけれど、すぐに苦笑をその唇に浮かべた。入れ、と手で示されおずおずと室内に足を踏み入れる。厳しい表情を浮かべた初老の男は、オレを一瞥してからアオトさんに向き直った。


「例の学生か、アオト」
「ああ。妹の友人だ」


 ほら、と差し出されたホットココアを躊躇いつつも受けとり、デスクチェアに座る。手際の良さはさすがだと思う。立ったアオトさんは、優しい目でオレを見下ろした。


「どうしたんだ、こんな夜中に」
「いや…、ちょっと、トイレに」
「そうか」


 そう言ってアオトさんはひとつ息をつく。それから瞳を上げた。深い深い海の色をしたその目の色は静かだ。


「聞いていたんだろう、シリウス」


 問い直す声に、オレは頷くことしかできない。手の中のココアが白い湯気を発していて、その暖かさがなんだか場違いだった。気まずい沈黙を破ったのは、もちろん目の前のそのひとだ。優しい目で、アオトさんはオレに笑う。


「そんなに深刻そうな顔をするなよ」
「いや、でも」
「いいんだ。オレ自身が受け入れたことなんだから。お前がそんなに辛そうな顔をすることはないんだよ」


 そんなことを、言ったって。
 あんなに元気で、かっこよくて、強くて、鮮やかに笑うアオトさんが、目の前で優しく笑うこの人が、あと数年の命だなんてオレには信じられなかった。それに。


「シェスアは――――知ってるんすか」
「いや。知らない」


 言うつもりもないのだと続けるアオトさんに何も言えず、オレは視線を手元のマグに落とした。ミルクチョコレートの色をした水面にオレが映る。


「オレがいなくなっても大丈夫なように、前を向いて生きていけるように。今、オレがあいつにできることをしてやりたくてな。我が妹ながら、自立は出来てないし甘ちゃんだから」
「シェスアは……アオトさんに救われてます」
「ああ。だけどな、あいつを救えてるのはオレだけじゃねーんだよ」
「え?」


 顔を上げたオレに、優しい海色の瞳が細められる。


「お前らがいるだろう。――――いつも、ありがとうな」
「――――ッ、アオトさ、」
「シェスアをよろしくな。お前らなら任せられるから」


 手がかかって泣き虫でころころ表情が変わって、≪移動者≫の力も夕蒔家の目の色も全て引き継いでしまった年の離れた妹。鮮やかな夏の空色をした瞳を持つ、少年の様な体躯の、父の髪の色を受け継いだ太陽のようなあの子を。


「おいおい、明日死ぬわけじゃないんだぜ?悲壮な顔をすんなよ、大丈夫だから」
「で、でも――――」
「さあ、そろそろ部屋に戻るんだシリウス。これ以上起きてると明日の訓練に支障が出るぞ。オレは手加減はしないからな」


 有無を言わさぬその言葉に押されるように、オレは部屋に戻った。本来の目的なんてとうに頭から消え去っていたし、体の不調も収まっていた。だけど。


「……嘘だろ?」


 言えない。あいつには。こんなこと、絶対に。













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130414