ぽたりぽたり、と。


 握りしめた華奢なナイフの先から、綺麗な色の滴が落ちてゆく。眠る彼の顔はとてもきれいだ。さらさらの金髪、少女と見紛うほどの整った顔。閉じられたまぶたの下には美しい青色の瞳があって。まるで物語の主人公だ。やさしくてあたたかい夢に囚われた、呪われた姫を選ばれた騎士がキスで救い出す。そんな物語をいつかどこかで読んだような気がする。だけどごめんね。私はクラピカの騎士にはなれなかったよ。なりたかったよ。大好きな気持ちはだれにも負けないと思ってたから頑張ったけれど、クラピカは戻ってこない。私のところへ戻ってこない。私は、選ばれた騎士なんかじゃなりえなかったのだ。


 ぽたりぽたり、と。


 どこまでも緋く緋く広がるその色はとても美しい。きらきらと部屋の光を受けて赤色はかがやいた。クラピカの色だ。金髪碧眼、冷静の裏に激情を併せ持つ彼の色。うっそりと見惚れながらそっと私は彼の薄い口唇に口づけをおとした。味はしなかった。彼の唇は体温を感じるようなものではなかった。ただ触れるだけの軽いキス。けれど、たったそれだけの行動なのに、彼が本当に遠くへ行ってしまったということが目の前に突きつけられたようで吐きそうになった。気色悪かったわけではない。私がクラピカに対して嫌悪感など抱くものか。私は哀しかっただけなのだ。吐き気を催すほどに喪失感が胸を締め付けただけなのだ。頬を何かが滑り落ちた。もう泣くことなんてないと思っていたのに。滑り落ちた何かは透明だった。色なんてなかった。これが私なのかもしれない。


「ありがとう、クラピカ」


 私は幸せだった。少なくとも、クラピカはそう思ってはいなかったとしても、私は幸せだった。彼のそばにいることが何よりも嬉しかった。初めて出会って好きになって恋をして愛し合って。ずっとずっと、幸せだったよ?そうでしょう?あなたも幸せだったよね?信じて、いいよね。私のもとに戻ってきてくれなくても、それだけは、真実だよね。


 ぽたりぽたり、と。


 もう、いいよね。これは私のエゴかもしれない。愛している。憎んでいる。解放されたいのは彼じゃなくて私なのかもしれない。愛しくて、愛しくて、憎くて。大好きだから、大嫌いだ。歪んでいるかと聞かれればそうかもしれないと答えるけれど、私は決して歪んでなんかいない。だけどきっと、これはあなたのためでは決してなくて私自身のためなのだ。自己中心的な行為だった。そう言ったら彼は怒るだろうか。それとも、「仕方ない」なんて言って哀しげに笑うだろうか。どちらでもよかった。彼がもう一度私を見てくれるのなら。私を見ないその瞳なんて、許せなかった。


 ぽたり、と。


 何の痛みも感じず、きらきらとした緋いナイフは私に吸い込まれていった。緋い霧が唇からこぼれる。ああ、きれいだ。緋は忌むべき色なんかじゃない。だって彼の色だもの。私のなかには彼がいるのよ。足を伝った私の緋はかれのそれと入り混じった。遠くへ行ってしまったのなら、私はあなたを追いかけるの。そしてきっと一つになるの。そうしたら、ずっと一緒でしょう?もう、クラピカが行ってしまうこともなくなるね。もう待たなくていいのね。だって私たちはひとつなんだから。















(憎悪と愛欲はどちらのほうが醜いか)
(あなたは綺麗だわ、私は醜いね)
(ごめんね、でも、もう、だめなの。)













090923