私の目の前から消えてしまった彼は本当に呆気なくあっさりと、信じられない位にたやすくその存在を絶ってしまった。やすやすと死ぬような人物ではないことは百も千も承知していた。なのに、でも、今回ばかりは私も、ああ、彼は死んだんだなあ、なんてするりと納得してしまった。信じていれば生きてあえるだとか綺麗事を紡ぐ夢物語は山のようにあるけれど、ねえ、それなら、納得してしまった場合ってどうなのだろう。生きていると信じていればいいの。信じればあなたは帰ってくるの。だけど私は信じられない。あなたが帰ってくるなんて、もう、信じられないの。涙は流れなかった。哀しいなんて感情が分からなかった。これはきっとそう、「虚無感」。ああ、私はあなたを喪ったのね。

 どうすればよかったのかな。夢のようなふわふわとした感覚の中で私は冷たい刃をみつめた。麻痺した感覚の中、首の頸動脈を滑ろうとしたその刃が止まる。ぽたりと肩の上に赤い雫が落ちた。「やめてください」綺麗な薄茶色の髪が流れる。沈痛な色をしたその瞳が見ているのはだれ。「―――死なないで」どうして止めるの。





 帰ってきてください頼むから。あなたの生を知って僕は心からそう願った。あなたが死んだと、そう信じきった彼女の憔悴ぶりは心が冷えるほどだった。何度彼女に言っただろう、あなたが生きている、と。それでもその言葉は彼女の心には届かないのだ。もう、あなたが彼女の目の前に現れる他、あなたの生を伝えることはできないのだ。「あのとき」から彼女はその瞳に光を映さない。何も見ない。―――僕ですら。

 師叔。あなたは今どこにいるのですか。彼女が大切ではないのですか。刃を押さえた手から流れた血は、少女の細い肩に落ちた。僕が懇願しようとも彼女はいつ死んでもおかしくはないのだ。彼女が生きる理由は、師叔だったのだから。きっともう彼女の生を引きとめられるのはあなただけなのだ。大切では、なかったの、ですか。師叔。・・・太公望師叔。





 楊ゼンの瞳は本当に哀しそうで悔しそうだった。私が可哀想なの?そんなこと、ないよ?可哀想なんかじゃないから、そんな顔しないで。ただ、私は、





 あなたが彼女を本当に大切に思っていたかどうかなんてもう関係ない。そんなこともうどうでもいい。それでも、彼女の視線に入れるのはあなただけなんです。僕は、彼女に生きていてほしいと思うから。彼女が名前を呼んでほしいのは、誰でもない、僕なんかじゃない、あなたなんだ。だから、僕は、













 君を憎み、君に焦がれる

(いまあなたはどこにいますか)
(こんなにこいこがれてしまうだなんておもわなかった)
(あいたい、よ)














091114


 時間軸はすべてが終わったあと。太公望の生が知られたくらい。
 それでもこの子は彼に会えるまでは世界を見ようとしないでしょう。